内なる平安を見つけるには:心配や煩いではなく、平安を持つにはどのようにしたらいいでしょうか。
この世界に、また私たち個人の生活に何が起ころうとも、しっかりと頼ることのできるものがあるでしょうか。人生や世界の状況がどうであろうと、希望を持って将来に立ち向かっていくことができるでしょうか。多くの学生は、神は安定した存在として評価しています。私たちのまわりはどんどん変化しています。けれども、神は変わることがありません。神は安定していて、信頼することができます。神は「わたし以外に神は存在するだろうか。」と問うています。答えは「ノー」です。「他に岩はない。わたしは知らない。主であるわたしは変わることがない。」(1)と神は答えておられるからです。神はいつもそこにおられます。神は信頼することができるお方です。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じ� ��す。」(2)そして、神はご自身を私たちに知らせることができ、神を通して私たちには平安が与えられ、私たちの心は安息の中に憩うことができるのです。
内なる平安を持つことは可能か
スタンフォード大学を卒業したばかりのヘザーは、このように言っています:「この現実の世界で神と関係を持つということは、うっとりとしてしまうほど麗しい現実を経験することです。この世には、私が取引によっては獲得することのできない普遍的な交わりが存在します。神は私を知り、深く愛しておられるので、私の希望はその神と交わることだけです。」
スティーブ・ソーヤーという血友病患者の学生は、輸血でHIVに罹ってしまったことを知った時、何かにすがりたいと思いました。最初、彼は絶望のどん底にいました。神を呪いました。そしてそのうち、神に手を伸ばしました。そして次のようなことが起こりました:過去数年間、スティーブは数え切れないほどの大学キャンパスを巡り、(痛みに耐えながら)彼が神を知ることができたこと、そこから経験することのできた平安について語ったのでした。神はこう言っておられます。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはす� ��に世に勝ったのです。」(3)
スティーブと同じように、他の学生たちも、人生に何が起ころうと「これが人生の終わりではない」ことを学びました。多くの人が神に向く前には、非常に厳しい試練に遭うことがあります。第二次世界大戦で軍隊のチャプレンをしていた男性は「戦場の塹壕の中では、無神論者はいない。」と言っています。人生がバラ色の時、人々は神を必要とは感じません。けれども、問題の矢面に立たされると、事情は違ってきます。
バージニア州に住む学生のカリンは、彼女が神を知る道について次のように説明しています:「私は日曜日には教会に行っていたので、自分はクリスチャンだと思っていました。けれども、私は神がどのようなお方か知りませんでした。高校3年生になっても、今までの3年間と何の違いもないように感じました。私はよくお酒を飲んで気分がハイになりました。また、私を楽しませてくれる何かや私を愛してくれるだれかを求めていました。けれども心の中は死にそうな気分で、私は自分の人生をコントロールすることができませんでした。その時、自分の人生をもう終わらせたいと思いました。同時に大学に行って、何らかの希望を見つけなければと思いました。その時、私は神に私の人生に入ってくださいと願ったのです。すると� ��は、愛、安心感、赦し、支え、慰め、受容、生きる目的を示してくださいました。神こそ私の力です。そして、そのことを知ることなしに、私が今ここにいることはなかったでしょう。」
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