アドルフ・ヒトラー(独: Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家。オーストリア出身で1925年まではオーストリア国籍であった[2]。
国家社会主義ドイツ労働者党党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げたドイツの独裁者。1923年にミュンヘン一揆で一度投獄されるが出獄後合法的な選挙により勢力を拡大、1933年に首相となり、1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首となる。
首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため独裁者の典型とされる[3]。また人種主義的思想(ナチズム)に基づき、血統的に優秀なドイツ民族が世界を支配する運命を持つと主張し、強制的同一化や血統を汚すとされたユダヤ人や障害者迫害などの政策を行った。さらに民族を養うための『生存圏』が必要であるとして、領土回復とさらなる拡張を主張した。それは軍事力による領土拡張政策につながり、1939年のポーランド侵攻によって第二次世界大戦を引き起こした。しかし連合軍の反撃を受け、包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したとされる。
[編集] 生い立ち
[編集] 出自
1889年4月20日、オーストリアとドイツとの国境にある都市ブラウナウで税関吏アロイス・ヒトラーと3番目の妻クララ(旧姓ペルツル、アロイスの義伯父の孫)の子として生まれた。兄弟姉妹に異母兄アロイス2世(私生児、1882年 - 1955年、1896 年に家出)、異母姉アンゲラ(1883年 - 1949年)。同母兄グスタフ(1885年 - 1887年)、同母姉イーダ(1886年 - 1888年)、同母兄オットー(1887年 - 数日後死亡)、同母弟エドムント(1894年 - 1900年)、同母妹パウラ(1896年 - 1960年)がいた。
姓の『ヒトラー』は、1876年にヨハン・ネムポク・ヒードラーがアロイスを認知した際に、シックルグルーバー姓から変更されたものである。ドイツ人では珍しいが[4]、「ヒトラー」、「ヒドラ」、「ヒュードラ」、「ヒドラルチェク」などの姓はチェコ人に見られる。1920年に日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され(舞台ドイツ語の発音が基になっている)[5]、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。
名前の『アドルフ』は「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗った。アドルフという名前は、当時のドイツではそれほど珍しい名前ではなかったが、ヒトラー政権下は人気がある名前となる。しかし、戦後は一転して不名誉な名前となった。ヒトラーと同じオーストリア人俳優のアドルフ・ヴォールブリュックは、1936年にハリウッドに移ってからアントン・ウォルブルックと改名している[6]。
父アロイスは小学校しか出ていない無教養な靴職人であったが、税関上級事務官にまで出世した努力家であった。一方でアロイスはマリア・シュイクルグルーバーという女性の子であるが、マリアは当時未婚(アロイス出産後に農夫ヨハン・ゲオルグと結婚)であり父親は誰なのか分からないままという人物でもあった[7][8]。アロイスはゲオルグと母が結婚する前に儲けた婚外子だと他者に語っているが、その根拠は示されていない[9]。この事実はしばしば論じられる「ヒトラー・ユダヤ人説」の由来となった。
出自の不明瞭さはヒトラー自身も気にかけていたらしく、義理の甥ウィリアム・パトリック・ヒトラーから「出自の事を暴露する」と恫喝されている上、自らも顧問弁護士でもあったハンス・フランクに家系調査を行わせていた事が戦後に明らかとなった。フランクは処刑前に調査結果を記しており、「マリアが奉公に出ていたグラーツのユダヤ人資産家の子息レオポルド・フランケンベルガーに手篭めにされて生まれた子供である」ことを発見、その証拠を入手したと述べている[10]。しかし証拠となる資料は今日に至るまで発見されておらず、またフランクは「ヒトラーは由緒正しいアーリア系である」と矛盾する証言もしている[11]。
それでもフランクの「レオポルド・フランケンベルガー実父説」は1950年代まで広く信じられていたが、次第に史学上の根拠に欠けると指摘されるようになった[12][13]。1998年、歴史学者でヒトラー研究の第一人者であるイアン・カーショーはアロイス出生時のグラーツでユダヤ系住民が既に追放されていたことから、「政治的な攻撃材料以外のものではない」と結論している[14]。
[編集] 幼少期
ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、パッサウ市へ転居している[15]。バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住した事になり、彼の用いるドイツ語の訛りはバイエルン人としての影響である[16]。1894年に再びオーストリア領内に転居してリンツ市に移住、1895年6月には父アロイスがランバッハ市の郊外に農地を買って農業を始めている。ヒトラーは初等教育を学びつつ、西部劇の真似事に興じるようになった。またこの時に父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった[17]。
父親の農業は失敗に終わり、1897年に一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。ヒトラーはベネティクト修道会系の初等学校に転校、聖堂の彫刻には後にナチスの党章として採用するスワスチカが使われていた[18]。8歳のヒトラーは聖歌隊に所属するなどキリスト教に深く傾倒して、聖職者になる将来を空想していたという[19]。1898年、修道学校での生活は父がもう一度リンツに移住した事で終わりを迎えた。2年後の1900年に弟エドムントが亡くなる不幸もあり、次第にヒトラーは真面目で聞き分けのよい子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった[20]。
母クララとの関係は良好なままだったが、父アロイスとの関係は不仲になる一方だった。アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えた事に加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした[21]。アロイスは無学な自分が税関事務官になった事を一番の誇りにしており、息子も税関事務官にするという野心を抱いていたが、これも益々ヒトラーとの関係を悪化させた[22]。中等教育(高校相当)を学ぶ年頃になると、古典教育が学べる学校に進みたいと主張したヒトラーをアロイスは無視して工業学校への入学を強制した。自伝である「我が闘争」によれば、ヒトラーは工業学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった。
恐らくヒトラーが最初にドイツ民族主義(大ドイツ主義)に傾倒したのはこの頃からであると考えられている。何故なら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。周囲の人間も殆どが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている[23]。
1903年1月3日、父アロイスが病没する。しかし憎む対象を失った後もヒトラーの行動は収まらず、むしろエスカレートするばかりの行動に耐えかねた工業学校は遂に退校処分を決定した。
[編集] 青年期の挫折
[編集] 放浪生活
1904年、ヒトラーはシュタイアー市の中等学校(リアルシューレ)に再入学するように家族から勧められたが、やはり望まない学業に対する不真面目な態度を変えなかった。2年次への進級祝いと称して学友と酒場に繰り出し、酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている[24]。結局、1905年には病気療養を理由に二度目の学校も退校している[25]。
1905年、漸く正規の教育課程から解放されたヒトラーは父の遺産と年金から仕送りを得る約束を母親から貰い、芸術の都であるウィーンへ移住して美術を学ぶ事を決めた[26]。以降、ウィーン美術アカデミーを二年間に亘って受験した記録が残っている。当時のウィーン美術アカデミーは職業教育学校として中等教育修了を必要とせず、工業学校や実業学校を途中で放棄したヒトラーでも受験が可能であったが、肝心の試験結果は不合格であった[27]。
同年の合格者にはヒトラーより一歳年下で、前衛絵画を制作したエゴン・シーレなどがいるが、ヒトラーは入校を許可されなかった。一度目の試験記録には「アドルフ・ヒトラー、実業学校中退、ブラウナウ出身、ドイツ系住民、役人の息子。頭部デッサン未提出など課題に不足あり、成績は不十分」と記述されている[28]。二度目以降の試験では予備試験にすら受からず、むしろ合格は遠ざかっていたという。経済的にも遣り繰りに工夫が要るようになり、1908年からアウグスト・クビツェクと同居生活を始めている。
画風については丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しく、後に絵葉書売りで生計を立てた時も既存作品の模写が多かったという[29]。本人はこうした自らの傾向を「古典派嗜好」ゆえの事と自負していた節があり、世紀末芸術など新しい芸術運動に嫌悪感すら抱いていた。従って前述のエゴン・シーレらが自分と違いアカデミーに迎えられた事について憤りを抱き、後に独裁者となると徹底的に彼らやアカデミーを弾圧下に置いている(頽廃芸術)。
またアカデミー受験に失敗した時に、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言されたエピソードは有名である。ウィーンでの美術館巡りでは建物自体の観賞を好んだと書き残すなど、ヒトラーは実際には建築物を好んでいてこの助言に大いに乗り気になったが、程なく彼は建築家を目指すのは画家より更に非現実的な望みである事を知ったと書き残している。
" | …画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難である事に気が付いた。私が腹いせで退学した実業学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ… | " |
1908年9月、クビツェクの前からヒトラーは突然姿を消した。これは入試に失敗した事を知られたくなかったためと、徴兵忌避のためと見られている[30]。その後、ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には浮浪者収容所に入り、公営の独身者寄宿舎に移り住み、1913年5月13日までここで暮らす事になる。ヒトラーは恩給や自作の絵葉書・絵画の収入もあり、ある程度は安定した生活を送っていた[31]。1911年には義姉アンゲラから孤児恩給を妹パウラに譲るよう訴訟を起こされて孤児恩給を放棄したが、同年に叔母ヨハンナが死亡して2000クローネにおよぶ遺産を相続したと推定されている[32]。
このころヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。その中にはアルテュール・ド・ゴビノーやヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論や反ユダヤ主義なども含まれていた。またキリスト教社会党を指導していたカール・ルエガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーなどにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたと言われる。この時代にヒトラーの思想が固まっていったと思われているが、仮にそうだ� ��しても、ヒトラーは少なくとも青年時代には政治思想に熱意を注いではいなかった。ヒトラーの絵や葉書を買い付けるユダヤ系の画商との夕食会に参加するなど、彼らと親睦も結んでいた[33]。また逆にウィーン移住前からの知り合いであるクビツェクは「リンツに居た頃から反ユダヤ主義者だった」と述べている[34]。
1913年、オーストリア=ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住し、仕立て屋職人ポップの元で下宿生活を送った。この頃ヒトラーは平均100マルクの月収を得ていた。1914年1月18日にはオーストリア当局に逮捕されて本国に送還されたが、検査で不適格と判定されたため兵役を免除された。同年に勃発した第一次世界大戦では大ドイツ主義から一転して軍に志願したが、ドイツ帝国の兵隊として戦う事を希望した。ヒトラーはドイツ帝国の構成国の一つであるバイエルン王国に請願し、バイエルン王国第16予備歩兵連隊に入営を許された。
[編集] 第一世界大戦
詳細は「ヒトラーの軍歴」を参照
ヒトラーはバイエルン第16予備歩兵連隊の伝令兵(各部隊との連絡役)として配属された。連隊は主に西部戦線の北仏・ベルギーなどに従軍してソンムやパッシェンデールなど幾つかの会戦に加わっている[35]。
終戦までにヒトラーは伝令兵としての活躍を評価されて二回受勲されている(1914年に二級鉄十字章、1918年に一級鉄十字章)。だが階級はゲフライター(伍長[36]、Gefreiter)留まりであり、二度も勲章を授与されている割には低い階級のままで終戦を迎えている[37]。理由については諸説あるが[38]、最も信憑性があると見られているのは「指導力が欠けており、配下を持つ事になる伍長以上の階級には相応しくない」と司令部が判断したという説で、直属の上官フリッツ・ヴィーデマン中尉が証言している[39]。
また近年の研究ではそもそもヒトラーの受勲は重要な功績を果たしたという意味をそれほど持たなかったのではないかとする意見も出ている。記録によれば同連隊の伝令任務には後方での連絡役と塹壕間の連絡の二つがあり、ヒトラーは比較的に安全である前者を担当した回数が多いと見られている。そして「危険な任務」と認識されている伝令兵に対する受勲はどちらの任務が主であっても可能性が高く、むしろ後方任務の方が高級将校との交流から可能性が高いとすら考えられている[40]。代表的なヒトラー伝記の作家であるイアン・カーショーはこの説に一定の支持を与えている。
1916年、ソンムの戦いでヒトラーは脚の付け根(鼠径部)に怪我を負って入院している(左大腿であったとする論者もいる)[41]。後方勤務との割合の程はともかく、前線への勤務経験もあったようである。またこの負傷でヒトラーが生殖機能に障害を負ったとする俗説があるが、真実の程は定かでない[42]。負傷そのものは会戦後に戦傷章を受勲した記録が残っている。
ヒトラーは大戦以前から熱心な大ドイツ主義者であり、また大戦でドイツ軍(正確にはバイエルン軍)の一員として戦った事で益々ドイツへの愛国主義は高まっていった(しかしドイツ市民権は1932年まで取得していない)。ヒトラーは戦争を人生で重要な経験であると捉え、周囲からも勇敢な兵士であったと労いを受けることができた[43]。
大戦末期の1918年10月15日、ヒトラーは敵軍のマスタードガスによる化学兵器攻撃に巻き込まれて視力を一時的に失い、野戦病院に搬送されている。一時失明の原因についてはガスによる障害という説以外に、精神的動揺(一種のヒステリー)によるものとする説がある[44]。ヒトラーは治療を受ける中で自分の使命が「ドイツを救うこと」にあると確信したと話しており[45]、ユダヤ人の根絶という発想も具体的手段は別として決意されたと思われている。1918年11月、ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であった[46]。
ヒトラーは民族主義者や国粋主義者の間で流行した「敗北主義者や反乱者による後方での策動で前線での勝利が阻害された」とする背後からの一突き論を強く信じるようになった。
[編集] 政界進出
詳細は「ヒトラーの政治的経歴」を参照
政治家への転身を考えた後も軍に在籍を続ける道を選び、陸軍病院から退院すると部隊の根拠地であるバイエルン州へと戻った。同地ではバイエルン革命によってバイエルン・ソビエト共和国が成立しており、ヒトラーは同年に暗殺されたクルト・アイスナー共和国首相の国葬パレードに参加した[47]。オイゲン・レヴィーネ政権下のバイエルン・ソビエト共和国で大隊の評議員に立候補しており、19票を獲得して当選している[48][49][50]。それから暫くしてバイエルン・ソビエトがバイエルン民族主義の支持を受けてドイツ共和国(ヴァイマル政権)から独立すると、穏当な対応を続けてきたヴァイマル政府も遂に鎮圧に乗り出し、ヒトラーは告発委員会に加わった[3]。
ヴァイマル共和国軍の進軍に合わせて右翼の退役軍人による蜂起(フライコール)が起きる中、ヒトラーは共和国軍の情報将校であったカール・マイヤーにスパイとしてスカウトされる。ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた[51]。
1919年7月、ヒトラーは正式に共和国軍の情報提供者(Verbindungsmann)の名簿に軍属情報員(Aufklärungskommando)として登録され、諜報組織の末端となった。彼に割り当てられた任務は革命政権を支持する兵士達への政治宣伝と、その一方で台頭しつつあったドイツ労働者党(DAP)の調査であった。ところがヒトラーはドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に感銘を受けて逆に取り込まれてしまう。ドレスクスラーの側もヒトラーを気に入り、1919年9月12日に55人目の党員に加えた[52][53]。ドレクスラーは革命の失敗は資本主義を牛耳るユダヤ教徒出身の革命家による陰謀であり、ユダヤ教徒の排斥なしに社会主義革命はありえないという極左的な民族主義を抱いていた。ドイツ労働者党で出会った人物にオカルト的な秘密結社トゥーレ協会に所属する思想家ディートリヒ・エッカートがいる[54]。
ヒトラーが軍や諜報機関を離れた時期は定かではないが、何時しか政治活動自体にのめり込んでドイツ労働者党の専従職員になったのは間違いないと見られている。彼は周辺国や国内の政治団体への過激な演説で名前を知られるようになり、ドイツ労働者党でも有力な政治家と目されていった。1920年2月24日、党内協議により党名を「ドイツ国家社会主義労働者党」(NSDAP、ナチス)へと改名する。1921年7月29日、労働者党内で分派闘争が起きると一時的にドレクスラーによって党内から追放されるが、党執行部のクーデターによりドレスクラーは名誉党首として実権を奪われ、代わりにヒトラーが新党首に指名された。
党首となったヒトラーの取り巻きはルドルフ・ヘス元陸軍少尉、エルンスト・レーム元陸軍大尉、それにヘルマン・ゲーリング元陸軍中尉などの退役士官組が多かった。その中でもレームは党の軍事部門である突撃隊を組織して党と敵対する組織を次々と襲撃するという過激な街頭活動を行った。
[編集] ミュンヘン一揆
詳細は「ミュンヘン一揆」を参照
党勢を拡大したナチス党を含んだ右派政党の団体であるドイツ闘争連盟はイタリアのファシスト党が行ったローマ進軍を真似てベルリン進軍を望むようになった。バイエルン州で独裁権を握っていたバイエルン総督グスタフ・フォン・カールも同様にベルリン進軍を望んでおり(バイエルンは伝統的に反ベルリン気質があり、独立意識が強かった)、ドイツ闘争連盟と接触を図っていたが、カール総督は中央政府の圧力を受けてやがてベルリン進軍の動きを鈍くした。
不満を感じたヒトラーはカール総督にベルリン進軍を決意させるため、1923年11月8日夜にドイツ闘争連盟を率いてカールが演説中のビアホール「ビュルガーブロイケラー」を占拠し、カールの身柄を押さえた。ヒトラーから連絡を受けた前大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍も駆け付け、ルーデンドルフの説得を受けてカールも一度は一揆への協力を表明した。しかしヒトラーが「ビュルガーブロイケラー」を空けた隙にカールらはルーデンドルフを言いくるめて脱出し、一揆の鎮圧を命じた。
11月9日朝にヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーもルーデンドルフも一次大戦の英雄であるルーデンドルフに対して軍も警察も発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン州警察は構わず発砲し、一揆は総崩れとなった。ヒトラーは逃亡を図り、党員エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に潜伏したが、11月11日には逮捕された。逮捕直前にヒトラーは自殺を試み、ハンフシュテングルの妻ヘレーネによって制止された[55]。収監後、しばらくは虚脱状態となり、絶食した。失意のヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数の人物が激励したとしている[56]。
逮捕後の裁判はヒトラーの独壇場であり、弁解を行わず一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取り、ルーデンドルフと並ぶ大物と見られるようになった[57]。花束を持った女性支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者も現れた[58]。