『機関車トーマスの男』より | 『機関車トーマス』とイギリス鉄道遺産
という意見が昨今は大勢を占めていますが、
テレビが始まったとき、
「トーマス」はすでに800万部以上を売り上げていたことを忘れてはなりません。
しかし、テレビ化によってトーマスがより多くの人々、
特に海外に広く知られるようになったのは事実です。
また、テレビでの放映によって、「トーマス」の本の売り上げも急増しました。
1985〜86年には7万1000ポンドだった収入は、1年後には44万8000ポンドに、
そして5年後には100万ポンドを超えるような勢いでした。
「トーマス」の人気が高まるにつれ、
その作家たるウィルバート自身の生活にも注目が集まるようになりますが、
彼とマーガレットは、この頃から健康に不安を抱え始め、
2人とも仕事や奉仕活動から身を引いていきました。
●『ソドー島』ついに完成●
もっともウィルバートの執筆意欲は満々で、
1987年には
『バーミンガム&グロスター鉄道』
The Birmingham & Gloucester Railwayの一部を執筆します。
同じ年、幻の名著とも呼ばれている
『ソドー島:その人々、歴史、鉄道』
The Island of Sodor: Its People, History and Railways
が弟ジョージとの共著で発表されました。
この中では、過去の「トーマス」のイラストの不備や間違いについて、
ウィルバートが言明している部分もあります。
そのほとんどはレジナルド・ダルビーの描いたもので、
ウィルバートのダルビーに対する不快感の深さをうかがわせます。
●プーさんのクリスと同じ悩み?●
息子のクリスに受け継がれた「トーマス」ですが、
出版元のケイ&ウォードを吸収合併したウィリアム・ハインマン社の児童書責任者は、
「トーマス」を嫌っていました。
それでも出版が続いたのは、担当のローズマリーが「トーマス」に固執し続けたからにほかなりません。
この頃出版されたシリーズ30巻目
"More About Thomas the Tank Engine"
では、父が生んだトーマスが久々にタイトルに顔を出しますが、
31巻目
"Gordon the High-Speed Engine"
では、作品に大きな変化が見られました。
それまでSLの"敵"とみなされていたディーゼル機関車を、
もっとポジティブに描いたのです。
その理由は、ソドー島という架空の島が子供たちにもよく知られているという一方で、
子供たちに身近な現実のイギリス国鉄の機関車をもっと取り上げるべきではないか、
とクリスが考えたからです。
同時に彼は、
「「トーマス」の継承者」から脱皮し、
独自の世界を作り上げなければ、
と思うようにもなります。
その思いは、彼に20年間勤めた会社を退職させ、
フリーランスの物書きとして一本立ちする決心をさせます。
そこから彼は、鉄道歴史家としてのキャリアも積んでいくことになるのです。
クリス自身、父とのスタイルの違いに対する批判は承知していました。
が、彼はもっと機関車の技術面をクローズアップしたいと考えていました。
どのようなブードゥー教の摩耗を練習人のですか?
しかし、作品作りの方法論ではウィルバートを踏襲したものは多く、
1ページあたりの単語数、
各見開きに入るイラストがほかと重複しないようなストーリー展開など、
クリスは知らず知らずのうちに父と同じようなやり方を身につけていました。
●オードリー夫妻最後の日々●
1988年、
"Toby, Trucks and Trouble"
が出版されます。
この年は、ウィルバートとマーガレットの金婚式でもあり、
オードリー一家はストラウドでパーティーを開きました。
彼ら2人が50年もの間手を携えてこられたのは、
ひとえに「パートナーシップ」をお互いに尊重し、
補完しあい、助け合ってきたからにほかなりません。
マーガレットは気丈な女性で、体調の不具合を訴えることはありませんでしたが、
彼女の健康状態は悪化の一途をたどります。
「トーマス」の印税で階段にリフトを備え付けたのも、この頃でした。
89年7月、ウィルバートはレッチレイドLechladeの鉄道模型店の開店で講演をすることになっていました。
ちょうどその日、近くで航空ショーが行われることになっていて、
彼は前日にレッチレイド入りし、
従兄弟が住む牧師館に泊まる手はずでした。
7月21日、ウィルバートが家を出ようとしたそのとき、
持病の狭心症の発作でマーガレットが倒れます。
ウィルバートは、すぐに講演をキャンセルし、彼女を病院へ運ぼうとしますが、
妻はこう言います。
「だめよ、1ヶ月も前に頼まれていた約束を直前にキャンセルなんて!」
そこでウィルバートは医者を呼び、マーガレットを病院に運びました。
ベッドに彼女を寝かせ、
彼は予定通りレッチレイドに向かいます。
その夜0時、ウィルバートが寝入ろうとした時、
牧師館の電話が鳴ります。
マーガレットは、夫に看取られぬまま、この世を去りました。
●妻の死にショックを受け●
妻の死を知らされたウィルバートは、
すべての予定をキャンセルし、
末娘のヒラリーとその夫とストラウドの自宅へ急行します。
ガランとした家に入ると、
言いようもない寂しさと罪の意識がウィルバートを襲いました。
たとえ彼がいっしょにいたとしても、
妻の死を避けることは到底不可能だったでしょうが・・・・・。
葬儀が終わっても、ウィルバートはしばらく消沈したままでした。
彼は、毎週タクシーでロッドバラRodborough教会へ行き、
妻の墓前に花を手向けていました。
ある日、その帰りにタクシーから降りようとしたところ、
彼は道に倒れこみました。
ドライバーは、すぐに彼をストラウド病院の急患に連れて行きます。
彼自身、足が悪く、寝室のある2階に上がるのが辛くて、
一晩中起きていたこともしばしばだったといいます。
初めて娘のヒラリーが見舞いに行った時、
ベッドに横たわる姿を見て、
彼女はこれほどやつれた父を見たことがありませんでした。
長女ベロニカが見舞いに来た時、ウィルバートはこう漏らします。
「もう家には帰りたくない」
作成する方法を、彼女は安全emotionlyを感じる
ヒラリーは、ハイワースHighworthの自宅に父親を引き取りますが、
彼はここでまた転倒し、別の病院に運ばれます。
問題は、足の具合よりも、
ウィルバートから回復への気力が消えうせたことでした。
しかし、ヒラリーが父のために療養用のホームを近くに見つけてやると、
彼は数日中に杖で歩けるようになります。
このホームで、彼は読書したりテレビを見たりしながら過ごしていましたが、
次第に、家に帰りたい、と希望するようになります。
そこで2人の娘は、住み込みのヘルパーを入れての療養を選択。
自宅を改造し、2階の夫婦の寝室をヘルパーの部屋に、
1階にウィルバートの寝室を作ります。
●名作だからこそ、批判も●
住み込みヘルパーとの暮らしをウィルバートは思いのほか楽しんだようです。
妻の死後はとても無理に思えたような鉄道イベントへの出席もはじめ、
1990年6月にはディドコットの大西部鉄道協会45周年のパーティーに、
翌月にはヨークの国立鉄道博物館で行われた彼への誕生パーティーにも顔を出します。
この時期はまた、「トーマス」に対するさまざまな批判が各所で展開されていました。
それは、イラストに対するものだったり、
作品の裏に見え隠れする階級思想だったり、
はたまた女性差別だとか。
こういった批判に対して、すでに亡くなってたテディの亡夫や元編集者のマリオット、
そしてテレビ版プロデューサーのブリットは反論を掲載します。
このような論争が、最初の作品から半世紀近く経ってからも沸き起こるあたり、
「トーマス」の影響の大きさを物語っているといえましょう。
●メディアミックス戦略●
日本でも、どのおもちゃ屋さんにでも置いてあるトーマスグッズですが、
トーマスの商品化は1984年のジグソーパズルから始まりました。
トーマス商品の展開については、
「汽車に乗らない今の子供たちに、こんな商品が受けるものか」
という下馬評もあったようです。
商品化は、ブリットの采配の下で行われましたが、
彼女は、高い品質を商品に要求します。
送られてきたサンプルにノーをつきつけることもしばしばでした。
保存鉄道で開催される「トーマスの日」が始まったのもこの頃です。
保存鉄道は、著作権料として1ポンドを支払うことで、
「トーマスの日」を開催することにブリットも合意。
これは、保存鉄道の資金調達に使われることになります。
しかしながら、保存鉄道の中には、
「トーマス」のキャラクターの顔だけを機関車に取り付けて走らせるところもあって、
「「トーマス」の品位を汚す」
という批判、それに対抗して
「機関車を歪める」
という反論が噴出。
ブリットはそこで、
著作権料を100ポンドに値上げした上で、
入場料からも一定割合のコミッションを徴収するシステムを提案します。
彼はあなたの魂の伴侶であれば方法を知っている
これに保存鉄道協会は一斉に反発。
「トーマス」の作品の中には、
保存鉄道からインスパイアされたものもたくさんあるのに、
ここへ来て大金を払えとは何事だ!
怒りの収まらない協会は、
その矛先をウィルバートに向け、
会長のデビッド・モーガンは怒りに満ちた手紙を送ります。
ウィルバートはショックを受け、返事を書きます。
しかし、彼自身は保存鉄道の資金調達にキャラクターが使われることに
異存はないものの、
この権利関係の問題は、彼の手の届かないところにありました。
一方ブリット側の主張は、
手を抜いたキャラクターが「トーマスの日」に登場することによって、
子供たちががっかりすることを懸念していました。
1991年8月、ブリットと保存鉄道との間の交渉はようやく決着。
イベント開催料として100ポンド、
入場料の合計が10000ポンドまでは5%のコミッション、
10000ポンドを超えた場合は10%。
これ以来、ブリットと保存鉄道の関係は良好なものになりました。
●アメリカ進出と、ブリットとの確執●
1988年には、ブリットはアメリカへの進出を考え始めます。
「トーマス」は、イギリスのみならず、英語圏ではすでにポピュラーではありましたが、
アメリカ市場への本格進出は、ブリットにとっても初めてです。
ブリットは、『セサミストリート』の後釜を探していたWNETと契約。
Shining Time Station
というタイトルで放映が決まりました。
この際、アメリカ英語への書き換えと、
「太っちょの局長」が、政治的判断でただの「トップハムハット卿」になります。
Shining Time Station
は、放映直後から大反響を呼び、メディア各誌でも絶賛されます。
放映開始6週間後には、
ナレーターのリンゴ・スター、監督のマシュー・ダイヤモンドがエミー賞にノミネートされました。
アメリカではまた、ミュージカルも制作されます。
このミュージカルを記念したパレードは、
クリントン大統領がテープカットをし、
ニューヨークのブルーミングデイル劇場を25000人が取り囲んだそうです。
トーマスは今やミッキーマウスのライバルとなり、
カナダや日本などにも進出していきます。
この成功を引っさげて、
1992年、ブリットは第3シリーズの制作に取りかかりますが、
できあがった作品を見て、ウィルバートはがっかりしてしまいます。
新しいシリーズでは、鉄道のルールがまったく無視されていたからです。
テレビシリーズは当初、
ウィルバートとクリスの作品に沿って制作されていました。
しかし彼らの作品には、スカーロイ、サーハンデルなど、
あまりなじみのない機関車がよく登場します。
こういった新しいキャラクターの模型を作るには、
費用もかさみます。
そこで今回のテレビシリーズでは、
トーマスなど、メジャーなSLをもっとたくさん使うようにしたのです。
新しいシリーズでは、劇中で特に活躍しないトーマスがストーリテラーのような役割で登場するようになりますが、
これもウィルバートには受け入れがたいことでした。
さらに、ウィルバートのお約束、
すなわち、実在の鉄道で起こった事故や事件を元にする、
という黄金律も、すっかり忘れ去られていたのです。
ブリットの側は、
私たちが最初に考えるべきは視聴者であり、
彼らには安定したイメージを提供し続けなければならない、
と反論します。
つまり、新しいキャラクターを次々繰り出すより、
トーマスのようなおなじみの顔を常に出していきたい、
ということですね。
1994年、ブリットの会社の価値は5000万ポンドにもなりました。
一方ウィルバートも、新聞に「トーマスで700万ポンド稼いだ男」
と書かれましたが、彼を訪ねたジャーナリストは、
その家が崩れそうなコテージだったことに驚いています。
●「機関車ウィルバート」登場●
ウィルバートとブリットの関係がギクシャクする一方で、
クリスの絵本の「トーマス」は順調でした。
新しいキャラクターが没になるなど、気落ちすることもありましたが、
1991年には国立鉄道博物館で企画展が開かれ、
92年にはトーマスがその博物館の名誉会員になるなど、
トーマスの知名度はさらに上がっていきます。
「トーマス」の28作目は
"Wilbert the Forest Engine"
は、保存鉄道Dean Forest Railwayをフューチャーしたものですが、
この鉄道の会長はウィルバート自身で、
1台の機関車に「ウィルバート」と名づけられていました。
作品では、このウィルバートが主役となったのです。
作品中、ウィルバートはトップハムハット卿に借りられ、
ソドー島を訪問します。
ここで、ウィルバートの作品トーマスと、
クリスの作品ウィルバートが出会うのです。
●弟ジョージの死●
1994年10月27日、ウィルバートの弟ジョージが78歳で死去。
ウィルバートと常に行動を共にし、
彼の陰日なたになって作品作りを支えてきたジョージ。
葬儀は、兄弟が足繁く訪れたバースの教会で、
11月3日に行われました。
ウィルバート自身、ベッドから起き上がることができず、
葬儀には参加できなかったそうです。
盟友テディ・ボストン、妻マーガレット、そして弟ジョージ。
ウィルバートを支えてきた友や家族は、
彼の回りから姿を消しました。
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