2012年4月27日金曜日

説教でつづるイエス様の物語


 その主の憐れみについて書かれているのが、13節です。

 「主はこの母親をみて、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた」

 イエス様は、たまたまこの母親の葬列に出くわしたのでありました。人の死は、その家族にとってはどんなに特別なことであっても、社会的にみるならば日常的なことでもあります。歩いていて、葬列に出くわすということは、決して珍しいことではなかったと思うのです。

 私たちもまた霊柩車や救急車を日常的に見ています。そこには一つの家族の大きな危機があるのだということがちらっと脳裏をかすめることがありますが、あまりにもありふれた光景になってしまって、無感動に見送ってしまうのが普通ではないでしょうか。

 しかし 、イエス様はそんな私たちのように人の悲しみに無感動のお方ではありませんでした。この葬列の中で大声で泣き叫んでいる婦人をご覧になって、憐れに思ったというのです。


 この「憐れに思った」という言葉は、たいへん強い意味をもった言葉が使われていまして、ギリシャ語では「はらわたが痛くなるような思い」という意味があります。気の毒に思ったという程度の言葉ではなくて、この婦人の悲しみを全身で受け止められた、そして激しい感情が湧き上がり、イエス様ご自身がそれに耐えられないような激しい苦痛にも似た憐れみの情に襲われたということです。

 世の中では、よく「平常心が大切だ」と言われることがあります。身の回りに起こった出来事にいちいち悲しんでいたり、怒ったり、憂いたり反応していては、感情に振り回される弱い人間になってしまうというからです。


 では、平常心を保つためにはどうしたらいいかと言いますと、心にバリアを持てばいいのです。たとえば人から何を言われても、カボチャが言っていると思えばあまり腹も立ちません。初めから人を信じていなければ、人に裏切られたときも、悲しみを小さくても済みます。自分が重い病気になっても、日頃から生きることに執着していなければショックも少なくて済むのです。固執しない、執着しない、感情移入しない、人を信じない、そういう心のバリアをもっていれば、どんなことがあっても影響されない強い人間になるだろうとは思うのです。

 けれども、それでは人の悲しみや苦しみに分かち合って一緒に泣いたり、笑ったりする人間にはなれません。それならということで 、心のバリアを取り除いてしまうと人の言葉や感情によって自分がかき回され、傷つけられたり、弄ばれてしまう。だから、よい人間関係というのは本当に難しいと思うのですね。


 ところがイエス様はそういうことを一切お構いなしに、心のバリアを取り払って、私たちの悩み、悲しみ、不安、恐れ、怒り、恨み、不平不満、そういったドロドロとした感情を全身で受け止めてくださったのです。そして、私たちの痛みをご自分の痛みとしてくださり、深い憐れみの情を催してくださるお方なのです。

 ナインのやもめに対してだけではなく、イエス様はいつでもそのようなお方でした。たくさんそれを示す箇所が聖書にあるのですが、一つだけご紹介しましょう。マタイ9章35-36節です。

 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打� �ひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」


 このイエス様の優しさによって、私たちはどんな悲しみの中にありまして、イエス様が共にいてくださるという救いを得ることができるのです。そして、そのイエス様と一緒ならば、私たちもまた、心のバリアを取り払って人の真の隣人になることができる、つまり「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」という本当に命を分かち合う交わりを持つことができるようになるのだと信じるのです。



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