瓜頂和尚の時局法話−<時の言葉>
世の中、少しは進歩したと言いたいのですが、毎日の新聞を読むと、暗いニュースばかりです。
もうちょっと顔がほころぶようなうれしいニュースが増えても良さそうですが、なかなかそうはいきません。
釈尊は、
劫濁 ( コウジョク−時代の濁り ) は避けられないものとして、意図するとしないにかかわらず、時代が進むにつれ、世の中は濁っていくことを見通しておられます。この劫濁が
見濁 ( ケンジョク−人のモノを見る目のにごり ) を呼び、見濁は煩悩濁 ( ボンノウジョク−煩悩が高まるにごり ) を、煩悩濁は衆生濁 ( シュジョウジョク−その時代を生きる人全てが同じにごりに犯される ) を、そして命濁 ( ミョウジョク−にごりによって寿命が縮まる ) へと、この宇宙船「地球号」の濁りは輪廻の世界をさまようばかりです。ではいったい私たちは、今をどう生き抜くべきでしょうか。
この悪循環を断ち切るには
「正しいモノの見方」を得る努力しかありません。 理屈ではなく、行動です!永明寺・瓜頂(うじょう)和尚の勝手気ままな時局法話をお読みください。
〔注〕 上の写真は、黄檗山万福寺大雄寶殿に置かれている、ラゴラ尊者の像です。左の像は自分の胸を開いていますが、これは、私たちの誰にも
「仏性 ( ぶっしょう ) 」が備わっていることを示しています。右は、その部分を拡大した写真です。
白隠禅師の坐禅和讃にある
「 衆生 本来 仏なり 」 とは、このことを言います。釈尊は、 「 自灯明 法灯明 」 と申されました。
自分を信じ、自分のすばらしい部分をより伸ばすように心がけたいモノです。
2007.6 =主要国環境問題を協議
《 時の言葉 》
蜂の華を採るに 但 その味わいのみを取って
色香を損ぜざるが如し (遺教経)
先進国の首脳が集まって国際問題を協議するサミットが、今年も開催されました。
昔は、話題にすらもならなかった環境問題、特に温室効果ガスや気候変動の問題が主要議題となって討議されたようです。
言うまでもなく、近年の気候変動は顕著で、近い将来に大規模な異変が発生するのではなどと、素人なりに思ったりします。
しかもその大きな原因はといえば、人間自身の活動にあると言われます。
例えば、動植物の無計画な乱伐、乱獲がこうした問題の元凶の一つであるようです。
一人一人の生き方に照らしても、よく考えて見直してみると、私たちの生活態度は傍若無人で無節操と考えられることが多々あり、� �省しなければなりません。
こうした私たちの生き方に対し、釈尊は、はるか昔にすでにきずかれ、注意をするようにと私たちに諭されています。
すなわち、「生活をするには、適量を有り難くいただきなさい。」と述べられているのです。
その喩え話が、見出しの言葉であるわけです。
蜂は蜜を集めるために、華に群がるけれども、蜜だけを集め、決して華の色や香りが損傷することの無いように配慮しているというわけです。
釈尊は、蜂の行動によほど感銘されたのか、法句経(ほっくきょう)の中でも、同様のことを述べておられます。
(法句経49) 花びらと色と香をそこなわず
ただ蜜のみをたずさえて
かの蜂のとび去るごとく
人々の住む村落(むら)に
かく牟尼(ひじり)は歩めかし
一方、釈尊は蜜のみに気を取られ、落とし穴に陥る人間の危うさも、経典の中で戒めておられます。
折角蜜を集めても、周囲にある深い穴に気づかずに、それに堕ちる人間のなんと多いことでしょうか。
実に環境問題は、人類が文化的な生活に気を取られ過ぎ堕ちた、落とし穴だと言えましょう。
《参考》 「法句経」について
法句経は、釈尊が弟子に語られた言葉を、論語のようにまとめられたものと言われています。
全部で四百二十三の詩句から出来ているとされ、漢詩に訳されたのは、西暦224年のことだと言われています。
内容は、人間の生涯に関わる、あらゆる事について触れられているので、多くの人が愛読しています。
有名な詩を挙げてみましょう。
121〔悪行について〕
「その報 よも われには来らざるべし」
かく思いて あしきを 軽んずるなかれ
水の滴 したたりて 水瓶をみたすがごとく
愚かなる人は ついに悪をみたすなり
160〔自己について〕
おのれこそ おのれのよるべ
おのれを措きて 誰によるべぞ
よくととのえし おのれにこそ
まことえがたき よるべをぞ獲ん
2007.5 =赤ちゃんポスト日本にも
父母の恩重きこと 天の極まり無きが如し (父母恩重経)
熊本県の一病院が、「赤ちゃんポスト」を設置しました。世界ではドイツに続いて二番目だということです。
で、この「赤ちゃんポスト」とは何かというと、世間には赤ちゃんを出産したものの、諸事情で育てられない親もいることが想像されます。そのような場合、無理に中絶をしたり、出産しても殺害をされたりする危険性もあることから、新生児を匿名で養子に出せるようにする場所を用意しようという制度です。
ところで、すでに七十以上ものポストが設置されているドイツでは、この制度が理解され定着しているかというと、いまだに賛否両論が渦巻いている状況だそうです。
主な「賛成論」は、人命尊重という人道上の観点からです。
一方「反対論」は、子供は親が育てるのが当然との意見です。
この問題は、社会状況と複雑に絡み合っていることから、安� �に答えることは出来ませんが、小衲は反対論者です。
いかなる事情があろうと、自分たちの子供の育児を、簡単に他人に預けるという無責任さは許されません。また、ポストに放り込まれた子供が、成人して自分の両親を知りたいと思った時、果たしてどのような思いを抱くでしょうか?
子供は両親の愛によってこそ育まれるという、この誰もが理解している常識を歪める仕組みを作ることは、人間社会の根幹を覆すことになりはしないでしょうか。
青年時代、隠元禅師が行方不明になった父を必死になって探し回られたのも、また、お母さんの手紙を生涯大事にされておられたのも、すべて両親への恩愛と思慕の情からです。
父母の愛によってこそ、人は人として育まれるのです。
禅師が来日され 黄檗山万福寺を建立された時、最初に作られた観音像(現在、禅堂に祀られています。)に、それまで大事に保管されていた母の手紙を貼り付けられた一事をみても、親子の絆の大切さを知ります。
この問題を語るには、余りにも紙面が少なすぎますから、あくまで問題提起に止めますが、私たちは、今崩れつつある家族愛や隣人愛について、もっともっと真剣に考え、大事にしなければと思うのです。
《参考》 「父母恩重経」が説く、父母の大恩十種とは?
一 懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
懐胎の時に守り見守っていただいた恩
二 臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
生まれ出る時に両親に苦しみをかけた恩
三 生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩
生まれ出る時にいろいろの心配をかけた恩
四 乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
乳を授けられ養育をしていただいた恩
五 廻乾就湿(かいかんじゅうしつ)の恩
子供には乾いた良い床を与え、自分は湿った床に寝る両親の恩
六 洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩
不浄物を洗っていただいた恩
七 嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
自ら不味いものを口にし、児には美味しい食物を与えていただいた恩
八 為造悪業(いぞうあくごう)の恩
子を養うためにやむを得ず悪行を行わせてしまった恩
九 遠行憶念(おんぎょうおうねん)の恩
遠くにいても常に子供の身を思ってくださる恩
十 究竟憐愍(くぎょうれんみん)の恩
子供の苦しみをどこまでも哀れみ、できれば自分が代わってやりたいと思ってくださる恩
このような両親への恩徳について、わたしたちは、どのように感謝し、どのようにして報ゆるべきでしょうか。
2007.3 =温暖化警鐘映画が受賞!
《 時の言葉 》
若し諸々の苦悩を脱せんと欲せば 当に知足を観ずべし (遺教経)
今年度のアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞は、地球温暖化問題を取り扱った『不都合な真実』が受賞しました。
映画では、これまでの気象データや、温暖化の影響を受けて変化する世界の様子を撮影した写真が駆使され、人々が環境を守る努力を続けることの重要さを訴えた点が評価されようです。
まだ公開されたばかりで見ていませんが、温暖化は天候異変等をもたらし、毎日の生活を左右する大問題だけに大いに関心があり、どんな映画か早く見てみたいものです。
ところが、なぜ温暖化が進んでいるのかとなると、はっきりしないようです。
炭酸ガス排出説、太陽黒点説、宇宙線説など色々あるといいますが、最も説得力があるのは、工場からの煤煙など� ��人間生活に伴って排出される膨大な炭酸ガスです。
考えてみれば、私たちが出す生活ゴミは、たった一人分でも相当な量になります。
その廃棄ゴミのうち、本当に不要なものがどれほどかは、敢えて考えずともよく分かっていることです。
さかのぼって考えれば、不要なものを余分に持っていることが挙げられます。
釈尊は、物を持ちすぎると、かえって苦しみや悩みが出てくる、と注意しておられます。
例えば、物欲はそれだけに留まらず、さらにもっと欲しいという欲望の拡大にしかつながらないからです。
釈尊は、亡くなられる時、弟子たちに最後の教えを説かれました。(これを遺教経(ゆいきょうぎょう)といいます。)
その中の一つが、「知足(ちそく)」、つまり足るこ とを知るようにという教えです。
物を持つことは、豊かの象徴だと思う人もいるようですが、一方で、愛着が湧き、余計な悩みや苦しみも増すばかりです。初めから余分な物は持たないという心がけこそ、温暖化防止の大きな一歩だと思うのですが、あなたは如何思われますか。
2007.2 女性は人を産む機械?
《 時の言葉 》
それ 人は万物の霊たり (隠元禅師)
またしても政府高官の不埒な発言が話題になっている。
人は色んな想いをかみしめかみしめ、周囲の人とトラブル無くすごそうと、自分を押さえて仮面をかぶりつつも、過ごしている。
いわば、この自重した生活態度こそが円満な生活をおくる秘訣になってくる。
だから、およそ大成した多くの方は頭(腰)が低く、「実るほど頭の垂れる稲穂かな」なんて道歌があるくらいである。
吉川英治という著名な小説家は、「吾以外皆我師」と言う言葉を座右の銘にし、その生活態度には、一片のおごりもなかったと言われている。
ところが、件の政府高官は、傲慢とおごりが群を超えているのか、しらをきるどころか、居座ったままである。
黄檗宗祖・隠元禅師は、「持戒(じかい…戒を意識し、守る生活をすること)」ということについては非常に厳しい方であり、自身の生活も厳しく律しておられ、宗門の徒弟となる者には多くの示唆に富む戒めの言葉を遺してくださっている。
たとえば「百歳に知ること無くんば、猶赤子(せきし)の如し、朝(あした)に聞き夕(ゆうべ)に死すとも、頤期(いき)に勝れり」(太和集) という語録がある。
百歳になったからと言って、為すべき事を為さず、学ぶべき事を学ばなかったら、赤ん坊と同じようなものである。
もし朝に道を聞きそれを実行するならば、夕方に不慮の死を遂げることがあっても、人をあごで使う様な形だけの大人よりも優れている。と仰っているのだ。
人間にとってもっとも大事なことは、大臣や社長になり、あるいは年を重ねることではなく、人としての誠の道を実践できるかどうかと言うことにあると言われているのだ。
また宗祖は、「人は万物の霊たり」(語録)とも仰っている。
人は、決してお互いを傷つけ殺し合う機械ではないし、勿論、人を産むための機械でもないのだ。
人とは何なのか、今こそ問い直すことが求められていると言えよ� ��。
2007.1 自己の本分を見失った人 続出中!
《 時の言葉 》
先ず戒根清浄にして 因果分明ならんことを要す (隠元禅師)
新年を寿ぎ、お祝いを申し上げます。
新年を迎え、皆さんの今年の予想は如何でしょうか。昨年のよかったこと、悪かったことの一切を捨て去り、何事も新たな気持ちで取り組んでいきたいものです。
と同時に、本年こそは忌まわしい事件事故が減少し、安心できる平穏な生活が過ごせることを期待したいものです。
ところで、黄檗宗祖・隠元禅師は常日頃から弟子たちに、「先ず戒根を清浄にしなさい」と言うことを口すっぱく話されています。
「戒根清浄」とは、「六根清浄」とほぼ同じ意味です。
つまり眼・耳・鼻・舌・身・意という、私たちの行動を起こさせる六つの器官が、常に清浄である様にコントロールすると言うことですが、より以上に、� ��戒」の心を持つようにという意味が強調されています。
簡潔に言うなら、「悪いことはせず、良いことをするように」と言う意味です。
さらにその心意気でもって、「因果分明に」と言われているのです。
「因果」とは、文字通り原因の「因」と結果の「果」のことで、まかぬ種は生えないの道理です。
もっとも、色んな条件(縁)の介在によって、必ずしも思惑通りには行かないことが多いものです。しかし、最近の世相を見ると、簡単に人生を諦める人があまりにも多くなってきたようです。
辛いこと、苦しいことはこの世では当たり前ですが、近年は、「忍耐力」不足の人が増えてきたように感じられます。しかし、人ほど可能性をいただいた存在は無いはずです。
隠元禅師の「因果分明に 」の言葉には、その可能性を見つけ、伸ばす様に心がけよ、との慈悲心が込められています。
私たちは、気構えと努力で、あらゆる困難を排除し解決できる力を具えているものです。ひいては、大きな幸せをつかむことも実現可能です。
人間と生まれた以上、猿や猫に生まれ変わるとか、若返りするとか等ということは、これは因果の道理で不可能です。しかし、いじめをされないようにとか、争いに巻き込まれない様にするということは、自分の努力次第で回避出来るはずなのです。
自己の本分とは何か、今一度問い直すことが求められているとは思いませんか。
出来ると判断できることは、他人に頼らずに自分で努力する。
そんな一年でありたいものです。
《 時の言葉 》
酒は微酔に飲む この中に大いに佳趣あり (菜根譚)
「酒」、これで失敗してきた人を嫌と言うほど見てきた。
小衲はほとんどといっていいほど酒が飲めないので、そのうまみが分からないが、「酒は百薬の長」と言う格言があるくらいだから、それなりの効能があるのだろう。
もっとも、『薬』というからにはその使用方法で良くも悪くも作用するわけで、飲酒運転事故が続発するのはまさに酒が毒薬としての効果を発揮しているのである。
古人の遺した言葉には酒に関する言葉が多いが、「一杯は薬、三杯は毒」というのがある。つまり、二杯目まではなんとか許されるが、その次は命取りだぞと言うことを端的に言い表している。
中国人が愛した『菜根譚(さいこんたん)』と言う書物には、花看半開、酒飲微酔、此中大佳趣。(花は半開を看、酒は微酔に飲む、此の中に大いに佳趣あり。)とある。
花を見るなら半開を、酒はほろよいかげん、この程度がもっとも趣のあるところだ。という。
ところが困ったことに花も酒も「ここらでやめた方がよいよ」とは言ってくれない。
若至爛漫○◎、便成悪境矣、履盈満者、宜思之。(若し爛漫もうとうに至らば、便ち悪境を成す、盈満(えいまん)を履(ふ)む者は、宜しく之を思うべし。)(注:○は酉へんに毛。◎は酉へんに陶の字のつくり部分)
菜根譚の著者はその辺りを心得ていて、満開の花を見たり酔いつ� �れるまで飲んでは全く興ざめだ。満ち足りた境遇にある人は、このことをよく考えて欲しいと、ちゃんと警告してくれている。
釈尊は仏道に帰依する者は先ず五戒を守れと示された。
五戒とは言うまでもなく不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒のことである。が、先の四つの戒と不飲酒の戒律とが同列に並ベられていることの重大性を私たちは真摯に受け止めなければならない。
不飲酒戒は別に仏教だけの特別な戒律ではなく、キリスト教はじめどの宗教もこれを強く戒めている。
好物を途中でやめることほど辛いことはないが、命との引き替えと思えば耐えられるものである。
200 6.8 ゼロ金利解除
《 時の言葉 》
貧 人を苦しめず 人 貧に苦しむ (売茶翁)
どうしてこうなってきたのか判らないが、日本人のマナーがどんどんと低下する一方である。
今さら、誰が悪いの、何に原因があるのと言えなくなってきた。
やれ、教育が悪い、テレビが悪い、マスコミが悪いと、一応御託を並べることは出来るが、これが決定的な要因だと言うことが出来ない有様だ。
それほどに日本人の頽廃堕落の原因は、何にも求められ、まさに社会全体の歯車が狂っているとしか言いようがない体である。
その内の一つには、『拝金主義』の風潮が挙げられる。
金、金、金。バブルがはじけてデノミになったら物価が下がりだし、これはよいことかと思っていたのに、給料も下がり、年金も下がりだし た。まさにおまんまの食い上げである。
ここへ来て、ゼロ金利解除だという。有り難いことなのか、困ったことなのか判らない。いずれにしても、また金、金、金である。お金のことを考えずに暮らしたいモノだがそうはいかない。
むかし、売茶翁(ばいさおう)という黄檗宗の僧侶がいた。煎茶を世に広めた和尚である。
こんな詩を歌いながら茶を売り歩き、その日に生活できるだけを稼いで暮らしていた。
松下(しょうか) 茶を点じて 過客(かかく)新たなり
一銭売与す 一おう(区へんに瓦)の茶
諸君笑うこと莫(なか)れ 生涯乏しきを
貧 人を苦しめず 人 貧に苦しむ
(松林の中で茶店を出していたがお客さんの多かったこと。
一杯一銭ですよ。
皆さんこんな私の貧しさを笑わんでください。
つらつら考えますに、貧乏が人を変えているのではなく、人が貧乏に負けているの ではないでしょうか。私は決して貧乏に負けたりしていないのですから。)
売茶翁はお金に振り回され人間の品格までも失いかけている私たちを、高笑いに笑っているであろう。
金、金、金とは言うまい。
《参考》『売茶翁』について
売茶翁とは仮の名である。歴とした黄檗宗の僧侶で、延宝三(一六七五)年に現在の佐賀県郊外で生まれた。
十一才のとき僧になり月海元昭と名乗った。
師の化りん(雨か んむりに林)道龍禅師は、隠元、木庵、獨湛という宗門草創期の傑僧方に薫陶を受けた優れた禅匠であり、七十才の時、獨湛禅師からお祝いの詩を贈られたので僅か十三才の月海を連れて登檗された。
このとき月海は年少のため禅堂内に入ることを許されなかったが、獨湛禅師との相見(しょうけん)が許され、そのうえ偈(げ)を賜っている。その後化りん禅師の右腕として仕えたが、四十六才の時に師が遷化(せんげ)したので法弟に寺を任せ、師匠の行業記をまとめた。
月海が京都に出、売茶を始めだしたのは六十一才の頃からだと言われている。今では「煎茶」を知らない人はいないが、当時はまだ高価で、薬と思われていた頃のことである。
自ら売茶翁と名乗り、『お茶代は、黄金であれ半文銭であれ、くれ次� ��、ただのみも勝手、ただよりはまけもうさず。』と書いた紙をぶら下げ、都の名物和尚になったという。
八十八才で亡くなる前年までこの売茶は続けられた。
亡くなる少し前、本山で獨湛和尚から偈をいただいたことを弟子に記録としてとどめさせている。煎茶を広めた清貧の僧・売茶翁(高 遊外(こうゆうがい))の行状は、私たちに大切な教えを遺してくれている。
2006.6 国宝古墳壁画にカビ
《 時の言葉 》
けふ褒(ほ)めて あす貶(わる)くいふ人の常
泣くも笑ふも 嘘の世の中 ( 一休宗純 『狂歌問答』 )
小さい頃、よく母親から「嘘はつくな。エンマさんに舌を抜かれるぞ」と脅されたものだ。
仏教徒となるには五つの戒め(五戒)を守ることが重要で、この五戒とは言うまでもなく不殺生(ふせっしょう、殺生をしない)、不偸盗(ふちゅうとう、盗みをしない)、不邪淫(ふじゃいん、正しい男女の交わりをする。)、不妄語(ふもうご、嘘をつかない)、不飲酒(ふおんじゅ、酒を飲まない)である。
つまり、「嘘」 をつかないことは人が守るべき最低の節度と言うべきものなのである。
ところが最近は、この「嘘をつかないこと」が死語になりつつある。いかに上手く 嘘をつくかが自慢の種にさえなってきているから驚かされるばかりだ。
最近、国宝・高松塚の壁画にカビが生えてきたということが大騒ぎになっている。
カビが生えただけのニュースなら別に驚きもしない。
小衲は文化財保護は門外漢だから、これが発見された三十年前、保存すべきか埋めるべきかが論争になったが、どちらがいいのかさえ判断がつかなかった。
ただ「この世における万物一切は諸行無常なり」で、保存したところでいずれ、色あせ崩れるだろうとは思っていた。
だからカビが出たところで関係者が進めてきた努力にもの申そうなどとは思わない。カビはこの梅雨時なら一日で生えてくる。当初から万全の対策などあり得ないと言われてきたものを、昭和四十七年の発見以 来、よくぞここまで保存されたと言いたい。
だが、このほど明らかにされた保存対策は私たちの期待からほど遠いお粗末なものだということが分かったし、自分たち自身が定めた保存マニュアルを踏みにじる「嘘」で塗り固めたいい加減なものだった事を知った今、何か無性に腹立たしい。
いったい、嘘は何のためにつく必要があったのだろうか。
けふ褒めてあす貶くいふ人の常
泣くも笑ふも嘘の世の中
一休和尚も困惑しているが、この風潮だけは何とかしなければ…
ついでながら…
「嘘からでたまこと」
日本ではどうしてこんなに嘘つきが多いのでしょう。
また、日本人はどうして嘘と承知していても黙っているのでしょう� �。
最近、大きな事件が相次ぎ、国会への喚問招致が行われていますが、多くの人が「また嘘を言っている」と思い発言者の証言など少しも信頼していないようです。
これは、一つには日本文化にも原因があると思います。
日本文化は仏教思想も大きく影響していますから、仏教の責任が大きいことは疑う余地がありません。調べるまでもなく仏教では「方便 (ほうべん)」と言うことを言います。
方便とは「真実を悟らせるための手段、方法」のことで、そのために「嘘を説いてもよい」などとは書かれていません。
しかし、いつの間にか『嘘も方便』などという言葉が出来たように、本当のことを知らしめるためには嘘も許されるという考えが浸透してしまったようです。
たまたまついた嘘が効果を発揮すると、『嘘から出たまこと』もあるもんだ、と、まことしやかに嘘の効用を吹聴する人も出てくる始末です。
少なくとも子供たちには、小さいときから嘘をつかないよう、絶えず指導すべきことだと言えます。
2006.4 民主党自滅
《 時の言葉 》
真実にして 虚(むな)しからず (般若心経)
今年は寒い、などと戯言を言っている内に、桜前線がどんどん北上し、いつの間にか政局は一変してしまっています。
ライブドアは、耐震偽装問題はどうなるのか、狂牛病問題は、防衛庁の談合発注は一体なんなのか、何も分からないままゼ〜ン部、闇の中に葬られてしまいました。
それもこれも、世間の虚々実々の駆け引きに未経験な一人の選良先生のおかげで…
おっと、それ以上言ってはいけません。 結局、真実なんてものは、誰にも見つけられないのかも分かりません。
『真実』。
いったいこの言葉のために、何万人、何億人の先輩が苦しんだことでしょうか。
般若心経の「真実不虚」という言葉を説明するために、いったい何� �字が費やされたことでしょうか。
それほどに「真実」とは何か、どこにあるのか答えられないのです。
それゆえ白隠禅師は、「真実など本当にあるのか」と皮肉って例え話を紹介しておられます。
ある男の大泥棒が仕事(?)を了えて帰る途中、婦人が悲しげに泣くのを見て声をかけました。
聞けば、母からもらった銀のかんざしを井戸に落としたというのです。
泥棒は裸になって井戸へ潜りそのかんざしを拾って上がってきました。ところが、そこには婦人はおろか、盗んできた財宝も残ってはいません。
実は、その婦人は女泥棒だったという話です。
男泥棒は果たして、本当に婦人を気の毒に思って井戸に入ったのでしょうか。一体、真実は何処にあるのだろう、という例え話の一 つです。
私たちは、たとえその現場にいたとしても、この話の本質など、とても見極められないことでしょう。
「真実不虚」どころか、真実を探ろうとすればするほどあがくばかりです。
先ずは、自分の目を確かにせねばなりません。
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