2012年3月24日土曜日

認識――選集 (Awareness-compilation) — シェアインターナショナル日本語版


本稿には『認識』というテーマに関する引用文の選集を発表する。これはマイトレーヤの教え(マイトレーヤからの『いのちの水を運ぶ者』、および『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師のことば(『覚者は語る』)、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。

間もなく世界は、新しい時代が始まったという認識に目覚めるだろう。まったく新しい生活形態が人類の意識の中に根を下ろし始めているという証拠が、あらゆる側に増大している。人類種族の中の敏感な人々は、人間であることが何を意味するのか、それを毎日の生活の中で実際に顕す最良の方法は何かをますます直観している。
日ごとに新しい概念が想念帯に入り、その影響を至るところにいる敏感な人間の心(マインド)に与えている。一瞬一瞬、人類が新しい宇宙の周期の瀬戸際に立つにつれて、人類種族の根底にある必要についての新しい認識が増大する。
何にも増して、人類はその一体性を、その相互依存性を、お互いの必要性を悟りつつある。そしてその顕現に向かって痛々しい一歩一歩を歩んでいる。対立、不調和、衝突は多い。しかし、お互いがお互いを同一認するアイデンティティーについての新しい認識が花開く。世界がこれほどまでに変化を求めたことは、かつてなかった。大計画の刻印がこれほど実り多く受け入れられたことは、かつてなかった。
(『覚者は語る』―眠れる火―p.371)
「主の意志によって、意識の種がいま打ち開かれようとしている」。人々は至るところで目覚めはじめており、彼らの運命は自由であることに気づき、他人に支配されることを許容しなくなるだろう。世界中の政府は民衆の声に耳を傾けなければならなくなるだろう。「政府は国民による国民のためのものになるだろう」
この新しい目覚めの感覚を十分に説明し、理解できる者はいないだろう。しかしわれわれはそれを目撃し、体験するだろう。
マイトレーヤは、すでに彼の綱領を準備された。すべての用意が整えられている。マイトレーヤが創造(被造物)や人生や目的について語るとき、民衆は容易にそれを理解するだろう。
(『いのちの法則』p.308-309)

認識(awareness)は極めて重大です。奉仕においてだけでなく、人生のあらゆる行為においても非常に重要です。実際、あらゆる瞬間において、認識はあなたがここにいる存在理由のすべてであり、目的のすべてであります。あなたは意識的認識(conscious awareness)を発達させるために転生しているのです。それが進化の意味するものです。認識と奉仕を他の一般的な認識と区別することはできません。魂が転生する理由が意識的認識において成長することであるなら、意識的認識があらゆる行為における支配的要素でなければなりません。
マイトレーヤは言われました、「真我のみが重要である」と。私たちはその真我なのです、不滅の存在なのです。私たちの苦痛、問題、苦しみは私たちが真我以外のあらゆるものと自己を同一認してしまう事実によるのです。だから、もし真我のみが重要なら、私たちが達成できる最も重要なことは真我の認識に違いありません。真我の認識は五分か十分座って瞑想し、一日の残りの時間は認識していないのではいけません。自分がいかなる存在なのかを認識できるようになるのは一瞬一瞬ですから、真我の認識は一瞬から一瞬へと続いていく過程です。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』p.715)


キャスリンは何を意味する

理性がさらに高度の能力である直観によって徐々に置き換えられる時代に入りつつある。人間が当然ながら誇りに思っているその論理力を構成するものはいつの日か識閾の下に落ち、今日、息をしたり、動いたりすることと同じように本能的なものになるだろう。直観の開花を通して、認識の膨大な広がりが人間の前方に横たわる。存在の状態についての認識であり、それはまだ全く人間に知られていないが、覚醒した心(マインド)によって知覚されるのを待っている。すべての意識の拡大の前には緊張がある。人間が今通過している争いと困難のこの時期の後に、平安と落ち着きの時が続き、直観が徐々に開花するための舞台が整えられるだろう。それが起こる とき、人間は、すべての論争を通り越して、神のイメージに似せて創られた魂としての自己の特性を直接知るだろう。
(『覚者は語る』―理性と直観―p.38)

イエスの言葉に『わたしは道であり、真理であり、生命である。誰もわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』とある。これは、認識を通してのみ、われわれは全能者(神)のもとに到達することができるという意味である。この真理が、キリスト教の伝統の中で、イエスの中に人格化されている。もしあなたがこの真理を"非人格化"して考えれば、それを認識の原理として理解することができる。
知識と智恵のみを通して全能者に到達することはできない。その道(知識と智恵の道)はあなたを神々に導くが、それは本質的には心(マインド)の創造物である。この中に救済はない。だから御父への道は『イエスを通してのみ』であり、言い換えれば認識によってのみである。なぜならば認識の中には執着や欲望がないからである。認識の中には時間も空間もない。神が"どこにあるか"を意識的に追求しようとすべきではない。なぜなら、あなたが正直で誠実で無執着ならば、その扉は開くのであるから。「認識を通して、あなたは進化する。主のみがその速度を速めることができる」
(『いのちの法則』p.102)


あなたの生物リズムで何を意味ですか?

わたし自身を公に顕す時が来たら、すべての人類の希望と願いを表明する――新しい人生への、新しい出発への願いを、方向転換への用意があることを、人々が平和に生きることができる新しい世界の建設を、自分自身を恐れることなく、兄弟たちを恐れることなく生きることができ、心に喜びを持って自由に創造し、正直にあるがままであることができる、新しい世界の建設への願いを表明しよう。
わたしの仕事は、始まったばかりであるのに、もうすでに人の心に新しい光が、新しい希望が芽生え、新しい始まりの兆がある。人間は孤立した存在ではないことを、あらゆる者の守護者であられる方が、代理人を遣わされたことを認識し始めている。わたしは、神の代理人である。
(『いのちの水を運ぶ者』No.8、p.41-42)
世界の中から世界を見ている人間を、彼の世界についての休験から分離できないことを、人々は発見し始めています。内界と外界、主観的なものと客観的なものは密接に関連しています。私たちは、自分自身の個人的な目を通してのみ世界を見ることができるのです。世界についての私たちの体験の質は、自分自身の意識的な認識に完全に左右されます。そして意識的な認識は、その認識の器の質、すなわちその人の肉体、感情体、メンタル体の器の質によって左右されます。例えば、覚者と見習い中の弟子との間の真の違いは、覚者は私たちが想像することのできない存在についての、リアリティ(実相)についての眺望を可能にする意識的認識の器を、道具を持っておられることです。覚者方は私たちの日常の意識をあまりにも大き� �超えておられるので、私たちはそれを垣間見ることさえできません。
私はしばしばこんな質問を受けます。「もし私たちが魂として完全ならば、魂はそれ以上完成する必要がないならば、なぜ大計画は私たちの転生を必要とするのですか。なぜ完全なるものが物質界において不完全となり、そしてまた完全に戻るための長い旅路をたどるというような、うんざりする仕事をしなければならないのですか。どうしてそんなことをするのですか」。「神はなぜ、物質に転生することを考えられたのですか。なぜ物質界に下ったのですか」。それらの質問に対する答えはもちろんありません。私たちには知ることができません。まず最初に心に留めるべきことは、私たちが意識について話をするとき、創造の中に存在する意識のあらゆる状態のほんのわずかな断片についてのみ話をしているということです。私は� �宇宙全体を指して「創造」と呼んでいます。
人類は物質界においてのみ意識を、真の意識を持ち、アストラル界における不完全な意識を持ち、そしてメンタル界においては意識のわずかな始まりしか持っていない――しかもそれはほんの少数の人間のみ――ということを考えるならば、私たちは意識についてまさに全く相対的な意味でしか語れないことが分かるでしょう。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』p.396-397)

世界の資源がより公平に分かち合われるとき、人間の問題の半分は一夜のうちに消え去るだろう。すでに多くの者がこのことを自覚している徴候が現れており、分かち合いを呼びかける声が至るところでもちあがっている。賢者は分かち合いが永続する平和の唯一の基盤であることを予見し、そして若者たちの英雄も、彼らの人気ある声を添える。
これは未来のために良い前兆である。なぜなら、それは人間が彼らの前にある選択――分かち合うか死ぬか――にやっと気づき、同胞愛と愛の精神で行動する用意があることを示しているから。人間はもはや彼らの運命を他人の手に――盲目で年老いた男たちの構成する政府に任せておくことに満足せず、彼らの未来と彼らの世界を守るために直接に参加する必要を感じている。
(『覚者は語る』―平和のための分かち合い―p.134-135)


ヨセフとマリアは、次の場合に結婚しましたか?

「そしてその光の中で、あなたは光を見るだろう」といぅ秘教の言葉があります。魂の光の中で、さらに高次の光を見ることができます。さらに明るい、より包括的な、より創造的な光です。魂から受けるものはすべて、その人が到達した位置に応じて当面の必要を満たします。しかし私たちのレベルで受けるときに、魂からその上にさらに何かがあるという直観をも受けることになります。魂の光の中で、さらにその先の光を見ます。志向を通して魂は私たちにそれ以上の高いものがあるという認識を与えてくれます。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』p.448-449)

私たちが行うことで、彼に見られず、聞かれず、彼からの反応をもたらさないものはありません。私たちが発するあらゆる愛の波動がマイトレーヤのハートの中に反応を見いだします。彼は人間の意識の様相の体現者です。私たちは意識の発達と意識的な認識の発達を通して進化するのです。そのようにして、マイトレーヤは私たちの認識と意識を刺激するのです。私たちの裡にある彼と、彼の裡にある私たちを認識すればするほど、自分が正しい道の上を歩んでいることをより確信し、周囲に与えることのできるものはより豊かになります。
(『生きる術』p.58)

認識が増大するにつれて、それが真我を導き、そうすれば真我がマインドと生気と肉体を賢明に利用することができる。エネルギーと環境をバランスさせることが、救済への鍵である。認識には記憶は存在しない。記憶はマインドの中にのみ存在する。あらゆる葛藤と不安はマインドの中にあるのであり、認識の中にあることは決してない。真我は中性であり苦悩から解放されている。認識が真我を保護する。苦悩や鬱や麻薬への欲求は、すべて心(マインド)の状態である。認識はあなたを自由にして、人生を楽しむことを可能にする。
(『いのちの法則』p.150-151)

家庭において、学校において、認識が天与の神聖なるものとして尊重されるだろう。認識は創造の母である。認識を分割することは決してできないし、強いることもできない。教科書でそれを描写することもできない、なぜならそれには、始まりもなく、終わりもないからである。認識は体験するのみである。
非常に小さな子供に神を探すように奨励するのは良くない。なぜなら、そうすることで、あなたは"主義"をつくるからである。認識はすべての創造(被造物)とすべての個人の中に存在する種である。子供に自然に成長する機会を与えるならば、子供の認識が育つのを可能にする。子供は正常な生活を楽しみ、独断的にはならないだろう。認識の中では、あなたは子供を所有しない、しかるに、子供たちはあなたにより近づいてくるだろう。現在でさえ、九つや十の子供たちが飢えた人々を養うための募金活動をしている。彼らが明日の市民になるとき、どのようになっているかを想像してごらんなさい。子供たちはそれをなすことができる。
(『いのちの法則』p.70-71)


もちろん進化すればするほど、より多くを識っていきます。人は識れば識るほど、奉仕へのより大きな責任があり、そして奉仕へのより大きな機会があります。党者方はよく識っているから、奉仕できるのです。私たちの奉仕は限られています。奉仕への願いやエネルギーが欠如しているからではなく、十分に識らないからです。私たちの意識は限られているので、限られた方法でしか奉仕することができません。人は意識的であればあるほど、あるいは意識のレベルが高位であればあるほど、よりたくさんの意識の糸が世界に向かって伸びていればいるほど、リアリティ(実相)の特性についての認識がより大きいのです。これらの糸がアンタカラーナであり、それは単なる光の柱ではなく、個人からその人の周りの環境のあらゆる領� ��に向かって広がり伸びていく認識の糸であります。これらの認識の糸が無限に増大していき、覚者になると、それがすべてを見通す力となります。覚者はすべてを認識しておられます。この増大する認識が実際、神のマインドの表現の増大であります。このようにして、私たちは神のマインドを明らかにし、神のマインドの中にある大計画の進行における道具となるのです。これが実際、イニシエーションの基礎であります。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅲ巻』p.477-478)

各世紀に、同時代の人々をはるかに抜きん出る者が何人か出現する。彼らの天賦の才は顕され、天性は輝きわたり、すべての者がこれを見、そして賞賛する。そのような人々は、人間が、己自身について、そしてその可能性についての認識を増大させていく方向につながる仕事を成し遂げた偉大な発明者であり、画家であり、作家、音楽家、科学者である。
近年において彼らの注目は、科学と人間の知識の拡大に向けられてきた。これが、今までは達成の望みさえかなわなかったほどのスケールで、人間のマインド(識心)を目覚めさせる道を整えたのである。人間は今日、これまでの達成をすべて影の中に投じてしまうような新しい啓示と発見の瀬戸際に立つ。この来るべき時代は「光の時代」として知られるだろう。そしてあらゆる意味と顕現を含めた「光」が人間の起源となるだろう。
(『覚者は語る』―光の時代―p.245)

東洋の哲学や宗教についての関心はますます高まっている。輪廻転生の法則、精神の物質を超える力、ウィルヘルム・ライヒの仕事やキルリアン写真(念写)で証明されたような物質の霊次元、ホメオパシー、針療法、精神的治療法やラジオニックス等々、これらすべては、人間が肉体や頭脳よりもさらに高次元の存在またはそれを知る方法があるということに気づき出してきた証拠である。これは至るところで起こっている意識の大きな転換の表れである。古い感情、思考の形態は、実在に関する我々のますます増大していく認識を表現するのに適さない。すなわち、このことは我々が新しい啓示を受けるにふさわしい段階に来たことを示すものである。
(『世界大師と覚者方の降臨』p.36)

いつの時代にも、人は自分の無知や恐怖に打ち勝つために、何となく感知する光を求めてきた。何か暗い恐ろしい破局に脅かされるとき、それが現実であろうが想像であろうが、人は本能的に自分の裡に心を向けて、魂の光を喚起し、そこからの導きを求める。そのような行為は自然なことである。なぜなら男も女も子供も、すべての人間の意識の奥深くに自分が魂であることについての認識が横たわるからである。進化の旅路を進んでいくにつれて、その確信は深まり、魂とその反映との間の意識的な連結は強まり、魂の光により容易に接触がつけられ、知ることができる。かくして理解の光が増大する。
人類は今や、意識の光がますます大規模に顕現する時代の瀬戸際に立つ。その光は、この地球上における人生の意味と目的についての認識の増大というかたちで人間の活動のあらゆる分野に表現される。今、多くの者はさらに高位の刺激が彼らを自分自身について、そして彼らの環境について少しずつ理解させていることに気づいている。
(『覚者は語る』―光の時代―p.377)


真我はどうなるのか。真我は目撃する。真我は全能者(神)の"小型の役割"を果たす。真我は全能者の閃光である。真我はただ心(マインド)と生気(スピリット)と肉体の過程を観察するだけである。この意味においてもまた、全能者は決して生成(Becoming)の中に干渉しない。真我は認識を通して、己の存在を知らせる。心と生気と肉体にリアリティ(実体)を気づかせる。そうすると、心と生気と肉体は真我の認識を尊重し、それに沿った決断をする。「あなたの認識を増大させなさい。認識と賢明さが、心と生気と肉体と、真我との間に調和をつくるだろう」。そうすると、真我は生命のフォース(力/エネルギー)を使い、物事を変容させたり、〝奇跡″を起こしたりすることができる。心と生気と肉体は単なる器(乗り舟� �にすぎない。
(『いのちの法則』p.81)

間もなく、われわれの人生に対するアプローチに大きな変化が起こるだろう。現在の混乱の中から、われわれの存在の根底に横たわる意味について新しい理解が生まれるだろう。そしてその意味についての認識を日常生活で表現するために、あらゆる努力がなされるだろう。これが社会の完全な変容をもたらすだろう。新しい生き方が人間関係と制度を特徴づけるだろう。新しい自由と歓びの感覚が、現在の恐怖心に取って代わるだろう。何にもまして人類は、生きることが一定の法則に基づく技であり、正しい表現のために直観の機能が必要とされることを実感するようになるだろう。
(『覚者は語る』―生きる技―p.74)

意識してかしないでか、人間は自分たち自身を追い越して、すべての予想に反して、新しい啓示を受け、新しい光と知識を受ける用意ができた。人生に新しい意味と目的を見いだし、その増大する認識をテクノロジー(科学工業技術)や科学や全く新しい関係の中に実証する用意ができたのである。
理由なくして、「生徒の用意ができたときに師はやって来る」と言われてきたのではない。このことは個人におけると同じく、集団の規模においても真実である。今日、生徒としての人類は、試され、試練を通過した世界の弟子としての人類は、新しい人生に、人類種族への奉仕の人生に入る用意がある。
現在起こっている意識の転換によって、彼らは自分たちの分離感は幻覚であり、すべての被造物の中で総体とつながっていないものは何も存在しないことを悟るだろう。この発達しはじめた認識と変化を受け入れる用意が、大教師と教師たち(覚者たち)を呼び招いたのである――わたしたちは教師である。
(『覚者は語る』―新しい光、新しい理解―p.239-240)

政治的、経済的変化を通してこそ、すべての人間に内在する霊性の反映を可能ならしめる制度が再建されるだろう。精神生活の道はすべての人間が歩むことのできる広く多様なものであることを、マイトレーヤが示されるだろう。人間生活のあらゆる努力の中に、あらゆる分野の中に、神についての認識と知識が感じられ、表現されるだろう。すべての者が一瞬一瞬のこの体験についての彼らの認識を、分かち合われた体験の結果として生み出される多彩な模様の中に、貢献することができる。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅰ巻』p.121)

親愛なる友よ、世界に起こっている出来事を見回して自分に問いなさい――「これは不思議なことではないか、この新しい光は何としたことだ」と。もしあなたが裡なる光に忠実であるならば、わたしの臨在がこの変化を呼び起こしたことに気がつくであろう。そのようにして、あなたはわたしがここに居ることを知るであろう。
(『いのちの水を運ぶ者』No.87、p.250-251)



These are our most popular posts:

人間はどうして労働するのか (内田樹の研究室)

2009年12月16日 ... 働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」 と同レベルの類的宿命であり、人間 ... たぶん」という限定を付すのは、それが労働で あるのかどうかは事後になって、それを「贈り物」として受け取る他者の ... ドストエフスキーは、人間はそのような作業の無意味さに耐えられぬであろうと書いた。 read more

心理学を学ぶことの意味 それは自分を知りより良い人間関係を築くために ...

心理カウンセラーになる予定のない方が心理学を学ぶことに意味はあるのでしょうか? 私は、大いに意味はあると思います。 それは心理学を学ぶことによって、自分を知ること が出来また人間関係がスムーズに展開するからです。 大阪心理カウンセリングセンター ... read more

BLOG「芦田の毎日」: 人間が死ぬとは何を意味するのか ― 私、私の死 ...

人間が死ぬとは何を意味するのか ― 私、私の死、世界 2007年01月27日 ... また自殺 をしたからといって、それは人が食事をしたというふうに或ることの行為者になるわけ ではない。 人間があることをしたということが言えるためには、その行為の時間(行為の 終末)を追い越さなくてはならない(食事が完了した後も生きていなければならない)が、 ... read more

japan.lifeissues.net

道徳哲学者は、全ての人間が普通に自然のままに経験することに関心を持っています. ... のためになり、どのような行為が人間のためにならないかを区別し始めるためには、「 人間であるということは何を意味するのか。 ... それは、人間とは自分の思い通りに自由 にできる単なる個人ではなく、その存在全てが、自分が知ることができるまわりの世界 ... read more

Related Posts



0 コメント:

コメントを投稿