世界史講座9
イスラム教の理解
仏教、キリスト教、イスラム教は、世界三大宗教といわれています。そのうち、仏教は1400年以上前に入ってきて以来日本に深く根づいていますし、キリスト教もクリスマスや結婚式などを通じてなじみのある宗教といえましょう。
それにくらべ、イスラム教についてそれなりの知識をもっている人は、日本にどれだけいるでしょうか?多くの人は、よくいえばエキゾチックな、悪くいえばえたいの知れない、という印象しかもっていないのではないでしょうか。
たしかに、日本に入ってくるイスラム教に関する情報は極度に少ない上に、断片的だったり偏っていたりするものです。とりわけ、近年のイランのイスラム革命やその後の珍奇な出来事、たとえば「悪魔の詩」事件などは、日本人に「イスラム教はアブナイ」という先入観を植えつけてしまったようです。
しかし、イスラム教は東はインドネシアから西はアフリカの北半分にまたがる、世界第2位の信者を抱える宗教です。なぜイスラム教はそれだけの広がりをもつことができたのでしょうか。また、いろいろな面で西欧的価値観が問い直されているこんにち、「イスラム教は奇妙だ」ととらえてしまうわれわれのものの見方も、再検討を要するのではないでしょうか。その意味で、イスラム教がどのようにして生まれ、発展していったのかをみることも意義があるのでは、と思います。
イスラム教の誕生
イスラム教が生まれたアラビア半島は、大部分が砂漠におおわれた荒涼とした土地で、遊牧民が部族ごとにわかれて住んでいました。ただ、紅海沿岸は東西交易の要地であったために、メッカなどの都市が商業によって栄えていました。
イスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)は、570年頃、このメッカの支配権を握っていたクライシュ族の一家に生まれました。イスラム教はよく砂漠の宗教だ、というふうに言われますが、その起源や教義をみると、本質的には都市(商人)の宗教だ、といったほうがふさわしいでしょう。
アラビアの民が信じていた宗教は多神教で、メッカのカーバ神殿にも神々の像があり、人々の信仰を集めていました。そのなかで、ムハンマドは40歳のころ、突然みずからを預言者(神の言葉を預かるもの)と自覚し、唯一絶対の神アラーだけを信じなくてはならない、と人々に説きはじめたのです。当然、町の人々は気が違ってしまったのか、と驚き怪しみました。
ただ、当時の地中海世界は全体としてはユダヤ教、キリスト教などの一神教が主流でした。ムハンマドは隊商の一員としてシリアまで出かけたりしていたので、これらに接していたことは間違いありません。実際、イスラムの教義はユダヤ教、キリスト教の強い影響を受けているのです。
ともかく、彼のまわりにはわずかながら信者が集まりました。しかし、大多数の市民の迫害を受けたため、ムハンマドは信者をつれてメッカの北方にあるヤスリブ(のちのメディナ)の町に移りました。これが聖遷(ヒジュラ)とよばれる出来事で、622年のことです。この年がイスラム暦の紀元となっています。
本文を持っていた有名な男性ムハンマドはヤスリブの人々の心をつかみ、この地に信者の共同体(ウンマ)をつくりました。ムハンマドはアラーへの信仰のため、メッカの不信心者との戦いを行う決心をかため、630年にはメッカを征服し、カーバ神殿の黒石をのぞいてすべての神像を打ち壊しました(以後、カーバはイスラム教の聖地となっています)。その2年後、ムハンマドは死にましたが、その時までにアラビア半島の大部分がその支配下にありました。
正統カリフ時代
イスラム教の教義がどのようなものか、という話は後にまわして、とりあえず誕生したてのイスラム教団国家がどのような道をたどったのか、見ていきましょう。
ムハンマドはイスラム教を確立したばかりでなく、この教えにもとづく新国家の建設者・指導者でした。人々は彼の死に大きな衝撃を受けましたが、とりあえずイスラム国家の指導者は欠くことはできません。ムハンマドは後継者を定めていなかったため、事態は紛糾しましたが、結局ムハンマドともっとも親密だったアブー・バクルがカリフ(後継者)として教団国家の統率にあたることになりました。
その後のオマル、ウスマーン、アリーまでのカリフは、イスラム教徒の大多数の支持を受けて正しい手続きで選出されたとされており、正統カリフとよばれています。
正統カリフ時代、イスラム国家はアラビア半島の外にも遠征軍を送りはじめます。当時、中東ではササン朝ペルシアと東ローマ(ビザンツ)帝国という二大文明国家が覇権を争っている状況が続いていました。両国とも、少数のアラブ軍をたんなる田舎の遊牧民とあなどっていました。しかし、聖戦の熱に燃えるイスラム戦士はビザンツ帝国からシリア、エジプトを奪い、642年ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを滅ぼします。世界史上の奇跡ともいえる大征服活動です。
しかし、世に言われているような「コーランか剣か」という強制的な改宗は行わず、税さえおさめれば異教徒にも旧来の信仰を認めるという寛容さがありました。
ウマイヤ朝
一方、内部では深刻な党争がおこっていました。とくに、ムハンマドの娘婿で4代目カリフとなったアリーと、シリア総督でウマイヤ家(もとはメッカの富豪)のムアーウィアの対立は新興イスラム国家を二分しました。アリーが過激派に暗殺されると、カリフの座はムアーウィアに転がり込みました。以後、カリフはウマイヤ家により世襲されたので、この王朝をウマイヤ朝とよびます。都はシリアのダマスカスに置かれ、以後アラビア半島が政治の中心となることはありません。
ウマイヤ朝のもとで征服活動はさらに加速しました。東はパミール高原、インダス川にまで達し、西は北アフリカ、イベリア半島を占領し、一時中部フランスまで進みました。まさにイスラムの嵐が全ユーラシアを揺るがしたのです。
ウマイヤ朝時代は、圧倒的多数の現地人に対し少数のアラブ人が征服者としてのぞみました。たとえば、アラブ人は租税を免除されたのに対し、被征服民は改宗しても租税を免れることはできませんでした。したがって、ウマイヤ朝はアラブ帝国ともよばれています。
イスラム帝国の出現
王1603は誰だったイスラム教は信者の平等を説いています。しかし、ウマイヤ朝のアラブ人第一主義はこれに反するもので、他民族だけでなくアラブ人のなかからも反発が起こっていました。これに乗じ、アッバース家(ムハンマドの伯父の家系)の人々がウマイヤ朝を打倒し、アッバース朝を建てました。750年のことです。
2代目マンスールは、チグリス川西岸に「平安の都」と名付けた円形の都市を築きました(奇しくも、同時代の日本の都と同じ名です)。これがバグダッドです。アッバース朝は5代目カリフのハールーン・アッラシード(『千夜一夜物語』で有名)の時代に全盛期をむかえますが、この頃バグダッドの人口は150万に達していたことはまちがいなく、唐の長安をしのぐ世界都市となりました。
アッバース朝のもとで、アラブ人であると他民族であるとにかかわらず、イスラム教徒のあいだの平等が実現しました。現地人の改宗も進み、イスラム教徒が人口の過半をしめるようになりました。その意味で、アッバース朝こそイスラム帝国の名にふさわしいといえるでしょう。
異民族のなかでも、とくにササン朝のもとで高度な文明を誇ったペルシア人は政治・文化・経済などさまざまな方面で活躍しました。
イスラム教とは
ここで、イスラム教とはどのような宗教か、少し詳しくみていきましょう。
イスラムという語は「帰依する」という意味で、要は「唯一絶対の神アラーに帰依し、その教えに従って生きる」ということです。信者はムスリムとよばれます(ちなみに、イスラム教の「教」は本来は不要)。
イスラム教はユダヤ教、キリスト教の影響を直接受けた一神教であるということは述べました。そのことは、アダム、ノア、モーゼ、イエスらを預言者として認めていることからもうかがえます。ムハンマドは、そのなかで「最後の預言者」との位置づけがなされています。そのため、イスラム教からすればユダヤ教、キリスト教よりも完全な教えだ、ということになります。
キリスト教と比較すると、信者間の平等が徹底していて聖職者や教会組織がないこと(モスクは公共の礼拝場であって教会ではない)、偶像崇拝を厳禁しており神や預言者の肖像を描いてはならないことなどが異なっています。
アラーが啓示としてムハンマドに下したものが、聖典であるコーランです。3代正統カリフのウスマーンのころに今の形にまとまりました。コーランは、ムスリムの信仰対象やさまざまな義務について触れています。
ムスリムが信じなくてはならないものが「六信」で、神・天使・使徒・啓典・来世・天命をさします。
また、宗教的な義務として「五行」があります。第一が「信仰告白」で、「アラーのほかに神なし」「ムハンマドは神の使徒なり」というイスラム教の根本原理を唱えることです(この二つの言葉はサウジアラビアの国旗に書かれています)。第二が「礼拝」で、かならず日に五回、メッカの方向に向かって行わなくてはなりません。第三が「喜捨」で、財産うちの一定額を社会的弱者に差し出すことです。第四が「断食」で、ラマダーン月(イスラム暦の9月)には日の出から日没まで一切の飲食を断ちます。第五が「巡礼」で、一生に一度、メッカのカーバ神殿に巡礼の儀式を行わなくてはなりません。
ジャレド名前が付けられていものその他にも、イスラム教は社会生活のあらゆる分野にわたって信者のまもるべき規則を定めています。たとえば、酒を飲んではならないとか、賭博は禁止だとか、利子をつけて金品を貸してはならないとか、4人まで妻帯できるなどといったことです。このような日常生活の規範をシャリーアといいます。典拠はもちろんコーランですが、おおまかにしか定めてないため、細かなことは第二の権威としてスンナ(ムハンマドの言行)をよりどころとしています。
さらに複雑な事例に関しては、8世紀ころからあらわれたウラマー(宗教学者)の見解などが前例となっています。イスラム法学には大きくわけて4つの学派があるといわれていますが、それぞれが対立しているわけではありません。
このようにイスラム教が単なる宗教の枠を越え、信者の生活に密着したものになったのは、この宗教がアラビア半島という辺境の地で生まれたことと無縁ではないでしょう。つまり、教義と教団の形成がそのまま法と国家の形成に結びついたわけです。その点、ローマという文明世界に生まれ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というキリスト教とはいかにも対照的です。
スンナ派とシーア派
イスラム教にも分派が存在します。そのなかでも最大のものがシーア派です。シーアとは「党派」の意味で、もともとは「アリーの党派」といっていたものです。つまり、4代正統カリフのアリーが暗殺されたあと、その子孫に従ってウマイヤ朝カリフに反抗した者たちをさしています。
シーア派の人々は、アリーの後継者(イマーム)のみをイスラム世界の指導者とあおいでいます。イマームは預言者の知識や神秘的な機能も受け継いでいるとされている点が、カリフとは違う点です。シーア派内で最大の12イマーム派によれば、10世紀中頃、12代目のイマームが姿を消しましたが(死んだわけでない)、この世の終末に再臨することになっています。シーア派はイスラム世界での反体制派として、歴代の王朝に対してたびたび革命運動をおこしてきました。
少数派のシーア派に対し、多数派をスンナ派といいます。つまり、神秘的能力をもつイマームでなく、現実的なスンナに従うという意味を含んでいます。ひとことでいえば、シーア派は理想主義的、スンナ派は現実主義的ということができるでしょう。現在、イスラム教全体でシーア派は1割程度ですが、イラン、イラクでは多数を占めています。
イスラム帝国の分裂
さて、古今の大帝国の例にもれず、イスラム帝国もやがて分裂のきざしをみせはじめます。とくに、5代ハールーン・アッラシードのころから、辺境の太守が事実上独立し、軍事政権をたてるというケースが増えてきました。
アッバース朝ができてまもなく、ウマイヤ朝の一族がイベリア半島にのがれ、後ウマイヤ朝を建国したのが、最初の政治的分裂です。その首都コルドバは10世紀には世界第2の大都市として人口50万を数え、繁栄を誇りました。
909年、バグダッドのカリフにとって衝撃的な出来事がおきました。シーア派の中でも過激なイスマイール派がチュニジアでファーティマ朝を建国し、カリフを称したのです。後ウマイヤ朝もこれに対抗してカリフを名乗ったので、イスラム世界に3人のカリフが鼎立するという異常事態になりました。
また、イランにはシーア派のブワイフ朝が出現し、946年バグダッドに入城してカリフから実権を奪いました。一方、ファーティマ朝はエジプトを陥れ、新都カイロを建設しています。この時期がシーア派全盛の時代といってもいいでしょう。
イスラム世界の拡大
帝国は分裂し、カリフの実力は地に落ちましたが、イスラム世界はますます拡大していました。
とくに重要なのは、トルコ人の改宗です。唐のところでふれた突厥やウイグルがトルコ人ですが、9世紀ころにはモンゴル高原から中央アジアに移っていました(この地方をトルキスタンとよぶのはそのためです)。剽悍な騎馬民族である彼らは重宝され、マムルークという奴隷兵としてイスラム世界に入り込んでいましたが、やがて部族ぐるみで集団改宗するようになりました。
そのなかで、アラル海周辺にいたトゥグリル・ベク率いるセルジューク族は怒濤のごとく西方に進出し、ブワイフ朝を粉砕して1055年バグダッドに入城し、カリフからスルタン(世俗の君主の称号)を授かりました。その後、セルジューク朝は名宰相ニザーム・アル・ムルクのもとでパミールからシリア、小アジアに至る大帝国となり、イスラム正統派のチャンピオンとして君臨しました。
また、インドへはアフガニスタンの諸王朝が侵略をくりかえしており、1206年にはマムルーク出身の武将アイバクがデリーで独立して奴隷王朝を建設しました。その後、デリーに都をおいた4つのイスラム王朝(デリー・スルタン朝)がしばらく北インド一帯を支配し、この地のイスラム化も徐々に進行しました。また、東南アジアでも12世紀以降、イスラム教が広がりました。
アフリカでは、地中海沿岸だけでなく、南はモザンビークにいたるまでの黒人社会にもイスラム教が浸透していきます。その中でも有名なのが富強を誇ったマリ王国で、マンサ・ムーサ王がメッカまで巡礼したとき、道中で膨大な金をばらまいたため、金の相場が大暴落してしばらく回復しなかったという話が残っています。
このようなイスラム教の世界規模の拡大の理由はいくつか考えられます。まず、教義の先進性があげられます。ムスリムはすべてアラーの前に平等という教えが、民族や階層を問わず歓迎されたことは言うまでもないでしょう。
また、イスラム世界の中心部が先進地域であり、それが人々をひきつけたことも考えられます。イスラム文化はギリシア、ローマ、ペルシアの進んだ文化を直接に吸収し、発展させたもので、医学・数学・科学・文学など、あらゆる点で世界最先端の水準を走っていました。それに比べると当時のヨーロッパはまったくの田舎で、イスラム文化に触れたとき大ショックを受け、それが引き金となってルネサンスがおこったほどです。
さらに、イスラム商人によってインド洋を中心とした国際商業ネットワークが発達したことも一因です。彼らは大航海時代の数百年前に、中国の福建からアフリカ東海岸までを股にかけて活躍しており、それに乗ってイスラム教もひろがっていったわけです。
世界史的にみて、「イスラムの時代」は17世紀いっぱいまで続いたといえるでしょう。しかし、その間には十字軍とモンゴルの来襲という大厄災もおこっています。これについては、また後ほどふれます。
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